妄言2.0

Joel氏の言うところの「アーキテクチャ宇宙飛行士」*1のできそこない*2が書いているので、スルーしてください。
また、以下の文章を詩として読むことができたなら、それはあなたが詩人だからです。

Web2.0について

Web2.0という言葉がある。上手く定義されていないにも関わらず(?)、便利なため非常に多くの場面で使われている。「マーケティング用語」とのレッテルを貼られるほどだ。(いや、ある面で正しいですけど)
ところで、なぜ「2.0」と付くのだろうか?
直接意味することは「バージョンアップ」なのだが、それでは何が変化したのか?
Web2.0という言葉の生みの親は確かティム・オライリー(Tim O'Reilly)氏のはず。そのオライリーさん本人によるWeb2.0の説明には以下のような特徴が挙げられている。

この中で、「集合知の利用」や「参加型アーキテクチャ」なんかは個人的に凄い興味が引かれる。しかし、私は「2.0」にとってそれは本質的でないと考える。
(論理が飛躍します。シートベルトをお締めください)
私が勝手に取捨選択すると、本質は「サービス」「再構成可能なデータ」「高い拡張性」になる。これを(彦麻呂風に)一言で表せば、
「Webの高階関数*3や〜!」
になると思う。つまり、WebサービスがWebやWebサービスを飲み込み、それもまたWebの構成要素となるということ。(自分で書いていてわかりにくいな)
・・・
と、勢いで書いたけど、上手くまとめる腕はない。大体、今やったことは取捨選択と言い換えなのでね。ちっとも建設的ではないですな。これ以上妄想するとWebサービスのカリー化とか言い出すので止めときます。

アーキテクチャ宇宙飛行士について

蛇足。(上に書いたものも蛇足と言えなくもない。蛇足の蛇足か)
Joel on Software」の中では、思想家をアーキテクチャ宇宙飛行士という「何でも抽象化して考え、あっちとこっちの共通点を見つけて自己満足するような人」のように書いている。
で、そんな人が全く価値がないかといえば、そんなことはない。(私はそう信じたい)
以下のように書くと研究者は怒り出すかもしれないけれど、そんな凄い人はこのブログを読むことがないだろうから、安心して書く。
森博嗣著「すべてがFになる (講談社文庫)」(講談社文庫)には瀬名秀明氏による解説がついている。その中で、瀬名氏は個人的に感じる森博嗣の魅力として著作の中に出てくる「学問への力強い言葉」を挙げている。

「僕ら研究者は、何も生産していない、無責任だけが取り柄だからね。でも、百年、二百年さきのことを考えられるのは、僕らだけなんだよ」
(引用 「すべてがFになる (講談社文庫)」本文)

これ以上の説明は野暮なのでしないことにする。しかし、もし「研究者」と「アーキテクチャ宇宙飛行士」の間に違いがあるとすれば、「何も生産してない」ことに対する自覚なのかもしれない。

*1:Joel on Software」参照。抽象化をやりすぎて大気圏を越えてしまうような人のこと、思想家

*2:ただの馬鹿とも言う

*3:関数が関数の引数として渡され、その中で利用されること(自信なし)