たけしの日本教育白書

(タイトルあってる?)を見た。そこで感想を。
途中で「いい先生とは?」みたいなことをやってたのが嫌だった。たけしさんが何度も言っていたけれども、問題なのは教師じゃない。(もちろん例外あり)教育制度、広くは日本の社会そのものが問題なんだ。
それに、短絡的な発想をしてしまいがちだけど、JR福知山線脱線事故と同様、末端の部分に対する批判は何も生まない。それは問題の本質が末端ではないからだ。
あと、後半に出てきた13年前の番組について。
その番組は、小学校の生徒が命の大切さを知るために豚を飼育すると言うもの。悪戦苦闘しながらも、生徒たちは豚の飼育を通じて命や食べ物について深く考えるようになる。そして、3年間世話をするうちに、生徒たちは豚に強い愛着を持つようになっていた。
しかし卒業を機会に豚の処遇について苦しむことになる。なぜなら、飼育をはじめるときに「最後は皆で食べる」と約束していたからだ。
生徒たちは卒業という期限が迫るなか、究極の選択をしなければいけない。「少しでも長く生かせてあげるべき」、「責任を持って殺すべき」とクラスは二分する。教師も含めて悩んだ挙句、教師が下した決断は精肉場に運ぶこと、つまり殺すこと。反対する生徒はいなかった。生徒たちは涙ながらにその決断を受け止め、好物のトマトとともに最後の別れを豚に告げるのだった。
この生徒と豚の記録を見て感じたのが、「人って、常に責任逃れして生きてるんだよなぁ」ってこと。これは「生かすべき」と言った生徒たちに対してじゃない。自分を含めた、すべての生きている人に対してだ。
それは、ときに神様、ときには政治家、ときには知人の形をしていて私たちの不満や責任を負わされいる。そして、私たちは動物虐待を嫌悪しながらも牛や豚の肉を食う。ときに食べきれず捨てたりもする。それは動物ではなく、食べ物の「肉」だから。
人ってのは非常に都合がいい。悪いことは他人のせいにしながら、良いことは自分の成果とする。でも、そうしないと生きていけないんだよなぁ。
生きること、そのものが不条理だ。
と、青臭い独白をかましてしまったけれども(笑)、この責任転嫁は冒頭の部分にもなかっただろうか?つまり教育の問題だ。
少年犯罪が起こると原因は劣悪な家庭環境。オーム真理教の事件は詰め込み教育の弊害。いじめ問題は教師の責任。キレる子供は食事が悪い。自殺者が増えたのは不況のせい。学力低下ゆとり教育の失敗。・・・etc.
アホかと。バカかと。
TVや雑誌に踊る文句は常にわかりやすい悪者を作り出し、"良識のある"一般人を一定の満足とともに思考停止させる。その内、"良識のある"人々は「これは問題だ!」と叫び、解決しようともせず誰かの言葉を繰り返しながら自分の"良識"ぶりに酔う。
自分がこの社会を構成する一員であることを忘れて。自分が子供の親であることを忘れて。何かの命と引き換えに生きていることを忘れて。自分が自分であることを忘れて。
・・・
つかれた。そして俺がアホだと言うことを思い出した。眠い。
 
追記:アメリカの飛び級制度が良いのではなく、飛び級を許す社会がすばらしいのであって、もし今の日本にこの制度があったところでどれだけの子供が学ぶ自由を獲得できるだろう?翼を切っているのは誰だろうか?